2013年10月20日日曜日

組田幸一郎先生の講演会に参加して

この度、組田幸一郎先生の講演会に参加する機会がありました。これまで2回チャンスがあったのですが、どれも参加することができず、今回ようやく参加できたことをとても嬉しく思うと同時に、このような機会を提供してくださっている柳瀬先生、はるばる講演に来て下さった組田先生に感謝の念でいっぱいです。特に、来年度から現場に出ていく身である私にとってはとても貴重な2時間でした。(この講演に関する柳瀬先生のブログ記事はこちらから。)


これまで学部、博士課程前期を通して「英語教育」のことについて勉強してきた私にとって「英語教師の仕事=英語の授業」という方程式がある意味思考の根幹を成しており、英語を学習者に理解「させる」ことが最終目標になりがちであったと思います。確かに、この方程式は正しいのだと思いますが、これがすべてではないのだということを今回の講演を拝聴して再認識した次第です。

組田先生が講演の中で仰っていた通り、英語教師の仕事は英語の授業だけではありません。

英語の授業に関するセミナーやワークショップは数多く行われており、参加しようとする意志さえあればそれに参加し、実践を見て、自ら研鑽を積むことができます。しかし、そちらにばかり重心が置かれると、「教師」としてのバランスが崩れてしまう可能性があることを同時に認識しておくべきであると思います。(決してセミナーなどを軽視してもよいという意図はありません。むしろ私は逆の立場です。)

この英語授業に対する熱の最終到達点として、現在は「進路実績」を上げることがメインになっており、偏差値や国立大学合格率などで学校がランク付けられる時代でもあります。進路実績は確かに成果の表わし方の一つではあります。しかし、これもその全てではありません。それにもかかわらず、この進路実績という成果に固執し、「ランク」という外部評価に目が行きがちです。だからこそ、上述のセミナーなどに比重が大きく置かれ、バランスを崩してしまうのかもしれません。

この外部評価に重心が傾くことは、本来の教育の目的から乖離して行ってしまう要因のひとつであるように思えます。外部評価だけでなく、「内部評価」を行うためには、教師それぞれに自身の哲学が必要だと組田先生は仰います。本当にその通りだなぁと思うと同時に、自分はこの哲学を持っているだろうかと問いました。「どのような英語教師になりたいのか。」

まだ本格的に現場に出る前の若輩者の哲学ですが、「社会に出た際、自らの力で生きていくことのできる人間、つまり、自ら考え、行動し、責任を持つことのできる人間を育てる」ことが私にとっての教育であり、私の理念です。その成長をサポートするために教師として、また英語教師として何が出来得るかを常に模索していく必要があると思っています。一所に留まって、安定に甘んじることなく、常に生徒と共に成長していく教師でありたいと願っています。


今回組田先生のお話を伺っている中で、大学院で受けた授業の内容を想起しましたので、Pennycook(2001)のCritical Applied Linguistics: a critical introductionから一節引用しておきたいと思います。
...a critical component of critical work is always turning a skeptical eye toward assumptions, ideas that have become "naturalized," notions that are no longer questioned. (p.7)
当たり前になっていることに疑問の目を向け、思考することが大切です。盲目的に何もかもを鵜呑みにする教師にならないように、周りがやっているからこれでいいんだという思考回路の教師にならないように、自戒を込めて。

拙文でした。

Amazon: Pennycook, A. Critical Applied Linguistics: a critical introduction

2013年8月28日水曜日

西村義樹・野矢茂樹著『言語学の教室―哲学者と学ぶ認知言語学―』

長らく更新が途絶えてしまっていました。ダメですね(笑) これからは定期的に投稿できるようにしたいです。(学会とか非常勤とかが重なって忙しかったっていう言い訳はしない)

先日、東京の学会に行くことがあり、ここぞとばかりに丸善の本店に赴きました!いやぁ、規模が違う規模が!今住んでいるところにこれくらい大きな本屋さんができるといいのですが…そうもいかないようです。その時、手に取ったのがこの一冊:西村義樹・野矢茂樹著『言語学の教室―哲学者と学ぶ認知言語学―』。認知言語学の基本的な考え方を西村先生が解説し、野矢先生が質問していくという形式で、認知言語学を勉強して少しよく分からかった部分がすっきりした気がします。(ただ、認知言語学の理論を基礎から説明しているというわけではないので、あらかじめ一冊認知言語学入門書を読んでから読む方が良いのではないかな、と個人的には思います。)

第1回 認知言語学の誕生
これまでの言語学の歴史を辿りながら、生成文法から生成意味論、そして認知言語学の誕生を解説されています。また、生成文法と認知言語学の接点と相違点とは何なのか。相違点に関してはさまざまな入門書等でも取り上げられていますが、接点を語って下さっているのは、私にとって新鮮で面白かったです。
言語習得や言語使用を可能にしている知識のあり方を解明することを目標にし、しかもその言語知識を心の仕組みの一環として捉える、その点では生成文法も認知言語学も違いはありません。(pp.20-21) 
つまり、追い求めていることは同じものであるということかなと思います。その時に心の仕組みの一環として捉える『捉え方』が、それらの間の相違点と言えます。言語が自律した器官であると考えるのが生成文法、言語が他の器官(視覚や聴覚など)とは切り離せないと考えるのが認知言語学、と言うことができるかもしれません。


第2回 文法は意味と切り離せるか
タイトルの通り、文法と意味が切り離せるかどうかという議論です。語彙―厳密には語彙項目―の意味と文法が切り離せるか、この問題についてbe going to doの文法化(grammaticalization)の仕組みや、日本語の「てくる」を例に解説して下さっています。認知言語学では、語彙項目と文法は同じ連続体の上にあると捉えられていることがよく分かります。


第3回 プロトタイプと百科事典的意味論
たとえば、「犬」という語の意味を理解しているというのはどういうことか、と考えてみます。それは、何かを見た時にそれが犬か犬でないか判断できることですよね。つまり、「犬」のような語の意味が分かるとは、その後と結びついたカテゴリーが適切に使えることにほかならない、そう考えられます。(p.64)
人間は、物事をカテゴリーに分けて捉えようとする認知能力を持っています。このカテゴリーが言語に大きく影響を与えていると考えられます。カテゴリーの中にはそのカテゴリーの代表例、つまり中心的な典型例(プロトタイプ)と、一応カテゴリーの一員ではあるが、中心ではなく周辺にいるものがあります。この例でよく引き合いに出されるのが「鳥」です。例えば、「スズメ」はより典型例に近く、「ペンギン」は鳥類に分類されるものの、鳥のプロトタイプとは言い難い。 これらを決定づける要因は何か、というものが「プロトタイプ条件」と呼ばれるものです。鳥は①くちばしがあり、②羽があり、③空を飛ぶことができるなどがこれにあたります。このような考え方は名詞だけでなく動詞や他の言語の部分にも影響を与えていることが解説されています。


第4回 使役構文の家族的類似性
使役構文をプロトタイプの観点を含めて解説してくださっています。ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」という考え方も出てきて少し難しそうですが、簡潔に説明が加えられていると感じました(私がきちんと家族的類似性を理解しているわけではないかもしれないのにそんな上から目線のry)


第5回 メトニミーをどうとらえるか
メトニミー、日本語では換喩と呼ばれます。入門書で良く例として取り上げられるのは「鍋をつつく」という表現。実際につつくのは鍋の中に入っている具材なのであって鍋ではないのに、言語表現としては「鍋をつつく」と言います。ここには近接性(contingency)が働いていて…と考えていきます。Langackerの参照点構造も簡潔にわかりやすい例で解説されていました。

第6回 メタファー、そして新しい言語観へ
私が取り組んでいる研究の主なテーマがメタファー(隠喩)で、どのように解説されているのかなぁと思いながら読んでいましたが、これまで通りとても簡潔にまとめられていたように思います。概念メタファー理論の中核的人物であるレイコフの裏話(?)的なものがあって面白かったです(と思うのは私だけかもしれません(笑))。


と、夏休みの読書感想文みたくなりましたが、前述のとおり、認知言語学を少しかじったことのある人にはおすすめの本です!認知言語学をがっつり勉強した方にとっては少し物足りないかもしれませんが、例が豊富なので、知識をより確固なものにすることができると思います!

拙文失礼しました。


西村義樹・野矢茂樹著『言語学の教室』


2013年4月26日金曜日

天満美智子著『英文読解のストラテジー』

コミュニケーション英語の授業をしていると、「読解」ってどうすればいいんだ?という疑問符がどこからともなく出現してきて、学習者の力を伸長するにはどういった授業をすることが効果的なのかが分からなくなってきていました。そんな時に、同僚の先生からオススメしていただいた『英文読解のストラテジー』という本。1989年に初版の本ですが、英文読解に関して体系的に、かつとても簡潔にまとめられていて、もやもやしていた気持ちに少し晴れ間が差してきたように思います。

「文章を理解した」というのはどういう状態を指すのでしょうか。天満さんは次のように説明しています。

行間を補うことができてはじめて...文が理解できたことになる。言いかえれば、...文は氷山の一角のようなもので、その大半は表面に現れていない。この空白の部分を読み手のもつもろもろの知識で補足し、全体をまとまりのあるものに仕上げるのが読み手の仕事なのである。(p.4)

「行間を読む」とはまさにこのことで、読み手は様々な既有知識を応用しながら文を読み進めなければなりません。また、文を理解できたと言えるためには、①主な語句の意味が分かる、②質問に答えられる、③自分の言葉で再生産できる、または要約することができる、という3段階ができて初めてそう言えるのだと天満さんは述べています。

「読む力」を養うとはこの3段階ができるようにすることである、と考えるならば、①の段階では辞書指導、②の段階では発問、③の段階ではreproductionやparaphrase、summary writingなどの練習を積ませることが鍵になると思います。特に、②の段階では、単に学習者が教師の考えた発問に答えるステップと、自らが発問を考えながら文章を読み進めることができるステップの2つがあると思います。最初のステップで少しずつ感覚的に文章のどのような部分に着目をして読み進めていくのかという「眼」を育てることが重要であると考えました。最初は「先生だったらここを質問してきそうだな」でも構わないです。そこから「この〇×は何を意味してるんだろう」と自律的な読者になれればそれで。そのためには一旦内容理解をした上で自ら発問を作ってみるといった作業も考えられると思います(1年生が終わるときにはそのような生徒を育てたいです)。

さらに、文章の「空白の部分」を補足する、つまり推論を働かせるという練習も読解には必要です。その手助けとなるのが、前回の記事でも話題にした推論発問です。これを足場にして、その足場を徐々に取り外しながら学習者に着眼点を見出す力がつけられればと思います。


この本を読んで少し「読解力」を身につけさせる授業の形が見えたような気がします(まだまだですが)。少しずつ自分の中で構造化していこう。(しかしこのタイミングでこの本を貸して下さった先生は本当に的確だったなぁ…!)

2013年4月2日火曜日

中嶋洋一著『学習集団をエンパワーする30の技』

前々から少しずつ読み進めていた本で(本来であれば研究のために論文とか読まないといけないんだろうけど現実逃避的に一気に読み進めたのは秘密)、ようやく読み終えることができたので、考えたことなどを残しておきたいと思います。主に私自身への戒めとしてですが。


①環境の重要性
大学の教科教育学の授業では、例えば指導法であるとか第二言語習得論(SLA)であるとか「教科」に関することを多く学びます。しかしながら、その指導法やSLAの知識が効果を発揮する基盤となる「学習環境」の整備の大部分を学ばずに学部を卒業したなぁというのが個人的な反省です。小学校の先生からよく聞く「学級づくり」あるいは「クラスづくり」という言葉は、中等教育に上がるとあまり聞かれなくなるような印象です。学級担任制と教科担任制の違いから生じるのかもしれませんが、「教科指導」と「学級づくり」の比重を今一度考えてみる必要があると思います。

楽しく学ぶためには、互いに間違いを許し合う、違いを認め合うようなcomfortableな環境でなくてはいけない。そして、わからないことをそのままにするのではなく、その場ですぐ解決できるうようなシステムを作っておくことが大切だ。 (p. 18)  

授業中に手を挙げて発表させる、自己表現させる前に、「自分が発言しても安全である」という状況を保障しておかなければ、学習者は発表したがらないし、表現したがらないでしょう。この集団は自分を受け入れてくれる、間違っても大丈夫、傷ついたりはしないというラポールが形成されることが、自らをさらけ出す前提条件であることを認識したいです。

また、教師の言葉の使い方ひとつで学習者の行動が変容することは容易に想像ができる。しかし、それを踏まえて実際にどのような声掛けをするか、ここまでなかなか手が回らないかもしれません。ただ褒める、というのは学習者はすぐ見抜くでしょう。実際自分がそうでしたし。具体的に何が良かったのか、という言葉を添えることでこのことは解消することができるのでしょう。言葉の教育をする以上、自身が用いる言葉は意識しておきたいです。



②銀行型教育概念からの脱却
「銀行型教育概念(Freire (1970) The Banking Concept of Education)」という考え方があります。中嶋先生は次のように説明しています。

教師が教材を提示し、生徒に説明する。生徒は覚える。これは銀行型(積み立て預金のような)勉強法である。覚えておけば、いつか使えるようになるだろうという発想だ。一方で、自動車学校型の勉強法がある。基礎・基本を徹底して、その後自分でドライビングしながら学んでいくというものだ。(p.158)

銀行型教育概念はいわゆる詰め込み教育に似ている概念と言えるかもしれない。とかく教師は説明したがる性分が強い気がする(私自身がそうである)。説明は短く簡潔にまとめる技術というものが教師には必須だろう。そこから学習者が「あ、そうか!」と気づく場面を仕掛けるのが教師の役割であると認識を改めたいですね。

FreireのThe Banking Concept of Education柳瀬先生のブログエントリーでまとめられています。興味のある方は是非。



③学習者の自己肯定感の醸成
最後に、中嶋先生は一貫して「学習者が気づく」「できたと実感できる」ことが成長するトリガーになることを記されていたように思います。自己肯定感(self-esteem)を高めることが成長を促し、また①の環境づくりに大きくフィードバックを与えるものになるでしょう。正答を求めるのではなく何を学び取ったのかを求める、間違いをさせない指導から間違いから学ぶ指導へ。その環境の中で学習者が「分かった!」「できた!」という感覚を得られるようなアクティビティを設定することが大切です。


…とつらつら書いてみたものの、私にとって本当に耳が痛いことばかりでした。特に塾での行使経験を振り返ってみるともう…!これからしっかりと意識していきたいです。



春休みの課題図書にしていた本があと2冊残っている…何をしていたんだ自分(笑)



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Amazon 中嶋洋一. 2000. 『学習集団をエンパワーする30の技―subjectからprojectへ』

2013年3月10日日曜日

田尻悟郎先生の英語ワークショップin福岡

2013年3月9日(土)、福岡の天神ビルで行われた、『田尻悟郎の英語ワークショップin福岡』(正進社主催)に参加してきました。とても貴重なお話をたくさんしてくださいました。田尻先生のお話と、それに関連して私が考えたことを(差し障りのない程度に)まとめておきたいと思います。



①事前の生徒指導=人間関係の形成

一般的に、生徒指導には消極的生徒指導と積極的生徒指導の2つに大別することができますが、その2つの基盤になるのが生徒と教師の「人間関係の形成」であり、ここから全てが始まります。生徒にとって「良い先生」とは、話を聞いてくれるしダメなところは指摘してくれる先生だそうです。田尻先生は、生徒からの信頼を得るには生徒たちが「自分たちのために何か一生懸命してくれている」と感じることがスタート時点であるとおっしゃっていました。

このお話を聞いて、私自身の学生生活を振り返ってみると、確かに自分にとっていい先生とは、自分のために親身になって動いてくれていると感じられる先生であったなぁと思います。

力で押さえつけたり、怒鳴ったりすることは、その重石がなくなった途端、それまで押さえつけられていたものが噴出していくだけであり、何の教育にもなっていないでしょう。自分で律する力をつけずに教師が“コントロール”しているだけに過ぎないと、先生ご自身の経験を交えてお話をいただきました。


②授業は生徒指導の場

①を踏まえると、授業は生徒指導の場であると捉えることができます。授業中には、生徒とコミュニケーションを取る場面がたくさんあります。そのコミュニケーションの中で、ある生徒が乱雑に扱われたり、コミュニケーションが先延ばしにされると、その生徒の信頼を得ることができるでしょうか。普段のコミュニケーションでは当たり前にできていることが、授業の全体指導になるとなかなか難しいと感じます。しかし、そうした小さな積み重ねが、生徒の信頼を得る最短かつ唯一の方法であると思います。どうしてもコミュニケーションを先延ばしにするほかないという場合でも、言葉一つで信頼は維持することができるのだと思います。


③習熟度別とは

近年、習熟度別クラスが多く導入されていますが、果たして習熟度別にクラスを分ける必要があるのでしょうか。習熟度別に分けたところで、その中でまたfast-learnersとslow-learnersの二項対立が生じるのは必至ではないでしょうか。考え方は、どうしても生じてしまう生徒の個人差をどのように活かすかであると思います。習熟度別に分けられていない、一般的なクラスでは、どうしてもslow-learnersに目が向きがちで、fast-learnersがないがしろにされがちです。「fast-learnersは何も言わなくても進んで課題をするから放っておいても大丈夫」というのは良く聞く言葉です。しかしこれは、ある意味で、fast-learnersのケアを怠ることへの正当化のようにも感じられます。fast-learnersをケアしつつ、fast-learnerがslow-learnerをサポートする環境を整えることで、slow-learnerがfast-learnerから、またfast-learnerがslow-learnerから学ぶこともあります。(このような考え方に至るには、まず授業は教師が生徒に知識を与えることであるという考えから脱却する必要がありますが…。)また、クラスの中で習熟度別課題を与えて、自分の力に応じて課題を遂行していき、上記のような環境を整えることも可能であると思います。


④課題をしてくれば授業についていける仕組み

これは、私が今回のワークショップの中で一番印象に残っているところです。学校での学習と家庭学習、どちらも大切な学習の側面です。田尻先生からの問いかけは、「家庭学習が、生徒にとってやりがいのある、力が付くと実感できる課題になっていますか」でした。また、その返却の仕方について、「スタンプやサインだけで済ませていませんか」という問いかけもありました。生徒が「よし、課題をやってこよう!」と思える瞬間は、自分のやってきた課題に対して教師が一生懸命見てくれたということを実感できた瞬間課題をやってきたから授業についてくことができたと実感できた瞬間です。これこそ、生徒の信頼を得るための第一歩であり、生徒が生徒が授業に積極的に授業参加するための環境づくりであると思います。

例えば、音読にもいくつか段階があります。(1)正しく読む段階、(2)たくさん練習する段階、(3)成果を確かめてもらう段階の3つです。これらの中で(1)と(3)は学校でしかできないものです。となると、(2)を家庭でやってくることが考えられます。(2)を家庭で練習してきて、それを学校で(3)成果を確かめる。そうすると、(2)を一生懸命してくるようになるのだそうです。

これもまた、生徒一人一人が(1)の段階でできるようになっているか確認することにより「自分のことをきちんと見てくれているんだ」と生徒が実感する大切な場面になります。




こうして考えてみると、やはり授業は生徒と教師の「人間関係の形成」の場であり、それをないがしろにするということは授業放棄していることと同義であると感じます。となれば、生徒の情意的な側面を考慮することも、授業準備の段階で必要であると思います。どの場面でどのような声掛けをするか、また、どの時期にどのような活動を取り入れるか、目の前の生徒をしっかりと見て考えることが(当然ですが)大切です。

と抽象的な一般論のようになってしまいましたが、具体的な授業の活動に落とし込んで考えていきたいと思います。

2013年2月22日金曜日

大津由紀雄編 『学習英文法を見直したい!』

自分の研究との関連もあり、大津先生が編集され、様々な著名な先生方が「学習英文法」に関して書かれている本である『学習英文法を見直したい!』を拝読しました。大きく4つのセクションに分けられており、「I.基礎編」「II.方法論」「III.内容論・授業論」「IV.さまざまな視点から」、そして最後に「V.眺望」としてまとめがあります。


今回読み進める中で、私が印象に残った部分を少しだけ。


「I. 基礎編」では「学習英文法」をどのように捉えたらよいのか、大津先生のとても簡潔かつ明快にまとめられているように感じました。「学習(英)文法」という言葉は、様々な人が様々な意味で用いてきたため、人によってその言葉の指す内容が異なったりする用語です。私自身、修士論文のために先行研究をまとめようと思っても、なかなか上手くまとめることができませんでした(単なる私の勉強不足ではありますが…)。本書では、「学習英文法」は第一義的に「学習者のための英文法(p.4)」を意味します。(第二義的には教師のための英文法を指すこともあります。)

近年の英語教育界では、“悪しき”「文法訳読式」授業法から“善き”「コミュニカティブアプローチ」へと大きく振り子が振れ、その流れの中で「英文法」は毛嫌いされることが多いように思えます。本書でも議論がありましたが、「《英語を使う際に、学んだ英文法にこだわりすぎて、文法的間違いを犯さないよう慎重になりすぎるがゆえに、日本人は英語が使えるようにならないのだ》(p.2)」ということが直接、「英文法はいらない」という議論にはならないと私も思います。

また、江利川先生が英語教育史における英文法の取扱いの変遷を取り上げていらっしゃって、とても面白く拝読しました。特に面白かったのが、明治時代の中学校教授要目と新学習指導要領の文法の取扱いに関する基本方針には、「実際に使えるように」配慮するという点で、あまり相違がないということです。新学習指導要領にも文法はコミュニケーションを支えるものと捉えるよう、解説に書かれていたと記憶しています。一つの視点から教育史を遡るのも色んな示唆をくれるのだなと感じました。

もう一つ、文法を足場や補助線として捉えるという観点を得ました。文法は、学習して英語を実際に使用できるようになるための「基礎」であって、学習の最終目的地にしてしまってはいけないと感じます。私は、「文法よりコミュニケーションを」という流れは、「バスケットボールの基礎練習よりもすぐに5on5(試合形式)を」と言っていることとほぼ同義のように考えます。文法を足場として、いずれはそれを取り外して歩いて行けるようにすることが必要ではないでしょうか。

文法を学習して終了ではないのです。学習した文法を用いて、英文を分析し理解する、自ら文を組み立てるための土台として活用していく必要があります。その土台を作るために文法はどうあるべきなのか、もう少し自分で考えてみようと思います。


この他にもたくさんの興味深い議論が収録されていました。私自身の修士論文に関わってくる内容でしたので、とても参考になりました。

学習英文法を見直したい

2013年1月25日金曜日

大津由紀雄先生 中締め講義―言語教育編― まとめその2

中締め講義―言語教育編―から早2週間。明日には―認知科学編―がありますね。その前に言語教育編のまとめは終わらせておかなければ。(残念ながら認知科学編には参加できませんが…。)


前回の記事では、大津先生の言語教育に関する考えを(稚拙な文章ながら)まとめさせてもらいました。今回は、指定討論者としてご講演頂いた(、そして大津言語教育論を斬った)松井先生、亘理先生、柳瀬先生の議論について考えたことをまとめておこうと思います。



まず、松井先生の議論。大津言語教育論における「ことばへの気づき(language awareness)」とは、一般的に言われているawarenessやnoticingとどのように異なるのか。どこまで「気づく」べきなのか。

awarenessやnoticingは(私にとって)曖昧で良くわからない概念です。Schmidt(1990)の気づき仮説(Noticing Hypothesis)では、気づきにもいくつかの段階があったように記憶しています。この仮説ではただインプットが取り込まれるにはそれに気づかなければならないと主張されていますが、大津言語教育論は、これにどのように気づくかを示して下さっているように思います。

大津先生の仰る「ことばへの気づき」というのは、「あぁ、そうか!」と学習者が言った瞬間に起きているのでしょう。私が勉強している認知言語学の立場から申しますと、この「ことばへの気づき」が生じるのは、学習者がすでに持っている言語に関するスキーマに、拡張事例による揺さぶりを書けたときであるように思います。前回の記事で言えば、「NP+たち=NPが複数存在する」というのがスキーマに当たり、「桃太郎たちは」というのが拡張事例に当たると考えています。学習者が「桃太郎たち」という拡張事例に出くわしたとき、「NP+たち」という表現は必ずしも「桃太郎が複数いる」ことは意味しないということを『経験的に』理解するのでしょう。気づくためには、学習者に与えるインプット(ここでは拡張事例)を適切に選択しなければなりません。

では、どこまで学習者は気づくべきなのでしょうか。これにはなかなか答えが出ないように思います。文法語彙項目によっても異なるでしょうし、拡張事例の選出方法も適宜変えていかなければならないと思います。ここ辺りは最終的には現場で勘を磨く外ないのでしょうか。




次に、亘理先生の議論。(議論の前に、亘理先生のスライドがとてもきれいにまとめられていて感動しました。)目的論レベルで英語教師と合致していないこと、言語の普遍性を理解することのメリット、「ことばへの気づき」とは結局何なのか。

特に目的論レベルでの不一致が気になりました。英語教育の目的とは果たして…。何のために英語を教えるのでしょうか。グローバル社会だから?なぜグローバル社会であれば英語が必要になるのか?社会の要請?などなど様々な疑問が浮かんできます。このようなことを少なくとも一度はきちんと考えておきたいと個人的には感じます。現段階で私は答えが出せていませんし、これから先まだまだ考えていかなければならない課題だと思います。そうでなければ、形骸化して英語を教えるようになってしまうような気も…。

言語の普遍性を理解することに関しては、まず理解すべきは教師側だと個人的には思います。私たちにとってL1は日本語であり、L2が英語であるという人が多いと思いますが、L1とL2を全く別のものであると捉えることもできるだろうし、共通の基盤があることも確かであろうと思います。ここでの共通の基盤とは何ぞやというのが疑問として浮上してくるでしょうが、この点に関しては認知言語学がかなりの部分を明らかにしてきているのではないでしょうか。Langackerのネットワーク理論、Lakoff and Johnsonの概念メタファー理論などなど、一度触れてみても面白いと思います。共通の基盤があると捉えていると、L1の知識を援用しやすいのではないでしょうか。




最後に、柳瀬先生の議論。大津言語教育論における身体性について指摘されていました。

身体論といえば、言語教育とは何ら関係ないと考える方も多くいらっしゃると思いますが、私個人としては、身体で経験したことが言語表現の基になっていることは認知言語学で明らかにされてきています(特に概念メタファー理論の領域)。このことを踏まえ、大津先生の仰る「ことばへの気づき」には「あぁ、そうか!」と気づいた瞬間の高まるような感情、もしくは情動が身体的な経験として言語表現と結びつけられるのではないでしょうか。その点で言えば、大津言語教育論にも身体性の観点はあるということが言えるかもしれません。身体性の観点から大津言語教育論を再考していくことも面白いのかなとも感じました。




最後のシンポジウムに関しては、私は新幹線の都合で途中退室させていただいたので言及は避けようと思いますが、途中までとても興味深く拝聴しました。この中締め講義に参加させて頂いて、自分の中でいろいろ『気づいた』こともありますし、また問題点も少し垣間見えた気がします。これを考えるきっかけとしていきたいと思います。


拙文失礼いたしました。