2012年12月6日木曜日

平成24年度附属研究大会

今回は2つの附属学校で公開授業を拝見しました。(このエントリーは単なる一学生の感想のようになってしまいますが、その点はご容赦ください。)


全部で5つの授業を観させていただきましたが、再来年度から中学校で勤務することもあり、中学校の実践を「学生の立場で」3つ見ることができ、多くの刺激を受け、授業を進めていく上で必要なことを学びました。


まず1校目。


1つ目の授業は高校1年生の英Iの授業。教材としてCrown IのLesson 7 Not So Long Agoが取り扱われていました。内容としては「20世紀の明暗(戦争と発展)」それぞれの側面を対照的に記述してある文章で、写真が多く用いられています。その点ではメッセージ性の強い教材だと思われます。

今回の授業では、ICTを用いて写真等を提示しながらの進行でした。Picture Descriptionを通して写真が伝える様々なことを読み取る練習を単元を通して行っていたみたいです。さらに毎回用いていた写真が実は本文に出てくる地域の「現在」を写すものであるという種明かしが本時でされていて、このような仕掛けをすることによって活動のつながりを意識することができるようになると感じました。

本文に込められたメッセージを読み取ることがメインの活動であったように見受けました。どのようにメッセージを読み取らせるのかがとても難しいなと直観的に感じましたが、読み取るメッセージは人それぞれでいいのではないでしょうか。筆者が伝えたいメッセージを文字から読み取ることと、それを読んで個人が感じることは必ずしもイコールの関係ではないと思います。核になるのは、メッセージをどのように読み取り、どう解釈していくことができるのか、その方法を身につけさせることであるように思います。その教材のメッセージが読み取れたところで別の文を読んだときに同じようにメッセージが読み取れるかと言われれば、答えは100%のYESではないでしょう。その術をいかに身につける道筋を立てるかがポイントだと思いました。



2つ目の授業は中学2年生の英語の授業。教材はNEW CROWN 2のLesson 8で言語材料としては受動態です。

全体的にきめ細かい仕掛けがあって、指示も簡潔、先生が話している時間がかなり短く、生徒が活動している時間の方が多い授業でした。使用言語はすべて英語。先生が日本語を話すことは一度もありませんでした。英語で質問して日本語で答えさせても、必ずそれを英語に直して音読させる。徹底的に生徒が英語に触れる機会が与えられている授業でした。圧巻。

また、Warm-upで用いられていた活動は、Data DescriptionをLINE OR RAWに交えて行っていました。ゲーム感覚の中で前時に習った言語材料(比較)を活用し、さらには本単元のターゲットである文構造(受動態)を用いることのできる活動でした。既習の言語知識と結びつけながら新出のものを練習させる(もしくは意識化させる)活動であると感じました。Warm-upの役割は、ただ英語の授業を行うためのice-breakerであると思っていましたが、この活動を見てこのようにReviewやPracticeを兼ねたWarm-upが可能であることを痛感しました。

本当に無駄な時間が1秒もない授業でした。見習いたいことがたくさんあり過ぎますが、ひとつずつ身に付けていきたいです。



分科会では英語の授業は体育と同じように「何かをするための術を教えること」であるという話がありました。確かに、従来の英語授業では、教科書の本文を理解し、その文を活用して(もしくは“模して”)プロダクション活動を行うことが中心になっていましたが、それでは別の教材に当たったときに太刀打ちできません。そうではなく、どのように英語を理解していくことができるのか、どのように文構造を組み立てることができるのか、その術を教えることが次に繋がる英語授業であるということです。その場限りの能力ではなく、次に繋がる力を。このことを意識しながら実践していくことが(難しいでしょうけど)必要であると感じました。



次に2校目。


1つ目の授業は中学1年生の現在進行形の授業でした。ただ単に「現在進行形は“be + -ing”である」と教えるだけではなく、どのような時に現在進行形が使われるのかを考えさせる、ある意味挑戦的な授業でした。とても難しい、抽象的な話を、中学1年生が分かるように噛み砕き、具体に落としていて、生徒たちの思考を促す授業だったと思います。

一方で、進行形の意味は動詞の内在的相特徴によって大きく変わってくるもので、一概に一般化を図ることはとても難しいものだと感じます。例えば授業中に提示されていた例文は…

A car is stopping near Koji.

でした。この場合、"stopping"は2通りに解釈することができると思います。1つは「Kojiの近くに停車している」、もう1つは「Kojiの近くに止まりかけている」です。この場合、情報構造の観点からの問題も浮かび上がってきます。これらは全て"decontextualize"もしくは"sanitize"された例文が引き起こす問題であるように思われます。上記の例文に文脈を与えれば如何様にも解釈することができます(英語教員はこのような文脈がすぐに思いつくかもしれません)。しかし、やはり生徒に例文を提示する時には、このような誤解を避けるためにも例文を吟味する必要があると思います。

ある原理原則を提示するとやはり例外が生まれてしまいます。その例外をいつまでも例外として処理するだけでは学習の負荷がいつまで経っても大きいままです。やはりどこかで共通の事柄を抽出する訓練が必要なのだと感じます。(そのためには前提として、学習者が多くの言語事実[=例文]に触れる必要があると思いますが…。)



2つ目の授業は中学2年生のThere is/are~構文の授業でした。この構文もただ単に構造を教えるだけではなく、どうしてThere is/are~を用いないといけないのかを考えさせることが、後々重要になってくると感じました。さらに、この構文には冠詞の使用も問題として生じてきます。ターゲットの文構造だけでなく、それに付随して必要になる知識を補完していくことが重要になると思います。

「なぜThereがいつも主語の位置にくるのか」、この疑問に対してただの「倒置だよ」だけでは「なぜ倒置が起きるのか」に対して答えることが必要になります。このことに関しては情報構造の観点からの説明が必要になると感じます。新情報、旧情報の配列の仕方をこれまでに学習した例文等を用いて導入し、それをThere is/are~構文に応用することで、この謎がすんなり解けるのではないでしょうか(という想像です)。このことを実際に授業に落とすにはまだまだ考慮すべきことがありますが…。



3つ目の授業は小学5年生の外国語活動の授業を見せてもらいました。小学校でどのようなことをしているのか垣間見ることのできる貴重な経験です。フォニックスの指導など専門的なところだけではなく、やはり小学校の先生は生徒一人ひとりに対する気配りというか、目の配り方が上手だなと感じました。クラス全体の活動の時でも必ず生徒一人に一回はコミュニケーションを取る機会を作っていたように見えました。もっと小学校の実践を見に行って学んでみたいです。




以上まとめてきましたが、もう少し上手く文章でまとめられるようになりたいですね(笑)

2012年11月21日水曜日

三浦孝、中嶋洋一、池岡慎著『ヒューマンな英語授業がしたい!―かかわる、つながるコミュニケーション活動をデザインする―』

『ヒューマンな英語授業がしたい!―かかわる、つながるコミュニケーション活動をデザインする―』は2006年に三浦孝、中嶋洋一、池岡慎先生が共著されたもので、以前から読もう読もうと思っていたものです。ようやく読み始めることができました。一旦読み始めると面白くて次々にページをめくって読んでいました。

前回の記事になぞらえて言うなら、この本は「『コミュニケーション活動』、その前に…」ということになるでしょうか。授業でコミュニケーション活動をさせる前に必ず読んでおきたい本です。


コミュニケーションとは一体何なのか。このことを考え出すと答えは出ないでしょうが、ある程度の全体像を掴んでおくことは必要なことであると感じます。私たちは日常でどのようにコミュニケーションを取っているのでしょうか。どのような目的で、どのような手段で、どのような感覚でコミュニケーションしているのでしょうか。このことを考えることで、少しずつコミュニケーションの実態が(感覚的に)明らかになると感じました。

L1でのコミュニケーションには、「伝えたい内容」と、「このことを誰かに伝えたい!」という思いが必ずあります。ここからコミュニケーションが始まります。しかし、学校におけるL2コミュニケーション活動ではどうでしょうか?伝える内容はあっても、この内容は周知の事実であるために伝える動機がない、むしろ、その伝える内容自体が“意味”のないものだったりしないでしょうか。

このこと以前に、コミュニケーションをする相手との人間関係はとても重要であるように感じます。コミュニケーションが成立するには前提として、「安心して」会話ができる環境が必要です。日常生活でもそうですよね。ではL2教室環境ではどうでしょうか。ペアやグループを適当に作ってはいないでしょうか。それではコミュニケーションを取ろうとしない学習者や、コミュニケーションが破たんしてしまう事例がいくつも出てきてしまうのは容易に想像ができます。


よく何も考えずに、「さぁ、今からペアで話し合ってごらん」であったり、「ゲームをするからグループを作ってできたところから席に座ろう」などと言ってコミュニケーション活動を授業で行おうとしてしまったり、そういった授業を私自身も経験してきました。しかし、こういった“何も考えていない”、“無神経な”教師の言葉が学習者のコミュニケーションを取ろうとする意欲を削ぎ落とし、学習から遠ざけてしまう。学習者が「英語を使って話がしたい!」、「英語でこんなに話せるよ!」という感覚を得るために、教師はどのようなサポートができるのか。そのためのヒントがたくさん、本当にたくさん詰め込まれた一冊でした。またじっくり読み直したいです。


『ヒューマンな英語授業がしたい!―かかわる、つながるコミュニケーション活動をデザインする―』

2012年11月5日月曜日

第5回山口県英語教育フォーラム

2012年11月3日(土・祝)、山口市で行われた第5回山口県英語教育フォーラム「『英語教育改革』その前に・・・」に参加させていただきました。長沼先生、山岡先生、奥住先生のご講演を拝聴させていただき、とても良い刺激を受け、充実した一日になりました。拝聴させていただいたことと、拝聴させていただいて考えたことを僭越ながらまとめておきたいと思います。まだまだ甘い思考ですがご容赦ください。



まずは長沼君主先生の「『Can-Doリストの使用』、その前に・・・。」

「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」が平成23年7月に示され、そのうちの提言1である「生徒に求められる英語力について、その達成状況を把握・検証する」の部分では、その具体的施策として「中・高等学校は、学習到達目標を「CAN-DOリスト」の形で設定・公表するとともに、その達成状況を把握する」ことが挙げられています。これを受けて現在、CEFR-J(日本版のCEFR: Common European Framework of Reference for Languages)が公開されており、また、各中・高等学校において学校独自のCAN-DOリストを作成されてきています。

今回のご講演では、CAN-DOリストを作成する以前の理念的側面を中心にお話しされていたと思います。CEFRやCEFR-Jなどの共通参照枠はあくまで「参照枠」であり、決して「スタンダード」ではないということを今回は理解しました。スタンダードになってしまうと地域の実態、また目の前にいる子どもたちに合わない、また理想だけが先行してしまう危険性があるということから、CAN-DOリストは、地域の実態を踏まえてボトムアップ的に作成されること、また、小中高一貫して作成されることが大切であり、「なぜ国がトップダウン的に作らないのか?」という疑問が少し解消されました。

CAN-DOの理念的なことは少しずつ理解してきている(ような気がします)が、では実際にどうやってCAN-DOリストを作成していけばいいのか、その部分をもっと聞きたくなりました。ご講演の中でワークショップ形式であればもっと具体的にされているとのことだったので、機会があれば是非参加させて頂きたいです。また、講演中に紹介してくださったCAN-DOリストのサンプル等を見ながら、どのようなCAN-DOが作れるのかを考えてみることが大切なんだろうなぁと感じました。

実際にCAN-DOリストを作成した後にも、その使用に注意が必要であることを学びました。CAN-DOリストは、その使い方を間違えるとCANNOT-DOリストになってしまい、学習者をdemotivateさせる要因になる懸念があるということです。学習者に「できた感」を感じる機会になるようCAN-DOリストを活用し、うまく学習者を動機づけ、自律学習へと導く手立てになるよう配慮が必要です。

深く考えなければならないことは、このCAN-DOリストもしくはCEFRの考え方が形骸化して日本に持ち込まれているのではないかという点です。上記の自律学習促進の側面や、CEFRのヨーロッパにおける本来の目的などを知らず、ただ単にCAN-DOリストだけを取り入れてしまうと、結局「あぁうまくいかなかったね」といった結果になるように思うのです。だからこうした理念的な理解というのは必要だと感じますし、分かった上で活用していきたいと思っています。(ただ理念的な理解もまだまだ必要ですし、それを具体レベルにまでどのように落とし込んでいくのか、さらに勉強が必要だと思いますが・・・。)

CEFRに関して、アルクのページで簡潔にまとめられています。





次に、山岡憲史先生の「『英語の授業は英語で』、その前に・・・」

来年度から完全実施になる新高等学校学習指導要領では、原則として英語の授業は英語で行うことと記されています。この背景の一つとして「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」が挙げられます。中・高等学校を卒業すれば英語が『使える』人材を育成しようという行動計画です。

これまで日本では文法訳読式教授法が主流で、学習者が英文を日本語訳し、教師がそれを直していく、この繰り返しで授業を行ってきました。しかし、これでは英語を「使える」までには至らなかったというのが現状です(これには少し疑問がありますが・・・)。文法訳読式の詰め込み型教育から大きく振り子が振れ、コミュニケーションを授業の中心として、コミュニケーションしながら英語を学習させるCommunicative Language Teaching(CLT)へと移行していきました。その流れの一つで英語の授業は英語でとなってきたと理解しています(間違っていたら訂正してください)。

ご講演の中で英語の授業を英語で行うことの利点やその方法などをお聴きしました。英語の授業を英語で行うことによって様々な良い効果が得られることが分かりました。しかしどうしても「英語がわからない」「英語がそもそも嫌い」な学習者に対して英語の授業を英語で行うことの意義が見出せませんでした。最初は英語が分からない学習者も徐々に慣れてきて、最終的には英語で英語を理解するようになる。これができれば一番いいのだろうと思いますが、やはり英語が嫌いな学習者にはただ苦痛でしかないように思うのです。徐々に慣れてくるというのはあまりに無責任なような気がしてしまいます。そのためには徐々に慣れて行くための手立て、もしくは仕掛けが必要でしょうし、先生もご講演の中で学習者の既習事項を把握し活用していくことの重要性には言及されておられました。

来年度から施行ということで、その施行の前に、今一度、英語の授業を英語で行う意義は何なのか、目的は何なのか、そのためにどのような工夫が必要なのか、考える必要があることに気付かせていただけました。




最後に、奥住桂先生の「『自己表現』、その前に・・・。」

『自己表現』をやっていれば『自己表現』する力は本当に伸びるのでしょうか。奥住先生がこの疑問をご講演の最初の方に提示され、私はこれまで無批判的に「自己表現=良いこと」と捉えていたことに気付きました。なぜ自己表現活動をするのでしょうか。自己表現活動にはどのような効果があるのでしょうか。このようなことを考えないまま自己表現をさせてしまうと「書けない」「書きたくない」の負の連鎖になってしまうだろうことは容易に想像できます。

自己表現にまで至らせる以前に、そのための基礎づくりが大切であるということは理解していながらもそのステップをすっ飛ばしてしまうということはWritingにおいてはよく見られます。なぜなんでしょうね。ListeningやSpeaking、Readingは事前に単語の意味や発音をチェックしたり、繰り返し音読してみたり、さまざまな事前準備を行うのに、Writingになると急に「さぁ書け~」になってしまう。中学校では「自己表現」という名の“自由な”Writingをさせながら高等学校に上がると和文英訳や書換え問題など「自己表現」とは程遠いWritingをさせる傾向にあります。これは逆ではないでしょうか、というのが先生の問いかけでした。最初子どもにチャンバラばかりさせておいて、しばらくしてから素振りという基礎練習ばかりさせることと同じだというメタファーでした。本当にそうですよね。

closedで単語・句レベルのWritingから徐々にopenで文・段落レベルのWritingへとバランスのとれたWritingを行うためにはまず自分が書かせているタスクのバランスを考えることが大切だと仰っていました。その際、先生が行ってきた様々な実践を紹介してくださり、「そんな方法もあるんだぁ」と率直に感じていました。

中学校のWritingで学習者に身に付けてほしいのは、書く内容といったソフトな部分の質よりもまずはWritingの中核になる文法や語法のハードな部分の質であり、そのためには基礎的な訓練は必要不可欠。その部分を充実させた上で「自己表現」へと移していきたいです。





お三方の講演を拝聴させていただいて、本当に良い刺激になりました。まだまだ勉強不足を痛感した一日でしたが、同時にとても充実した一日でした。