2013年3月9日(土)、福岡の天神ビルで行われた、『田尻悟郎の英語ワークショップin福岡』(正進社主催)に参加してきました。とても貴重なお話をたくさんしてくださいました。田尻先生のお話と、それに関連して私が考えたことを(差し障りのない程度に)まとめておきたいと思います。
①事前の生徒指導=人間関係の形成
一般的に、生徒指導には消極的生徒指導と積極的生徒指導の2つに大別することができますが、その2つの基盤になるのが生徒と教師の「人間関係の形成」であり、ここから全てが始まります。生徒にとって「良い先生」とは、話を聞いてくれるしダメなところは指摘してくれる先生だそうです。田尻先生は、生徒からの信頼を得るには生徒たちが「自分たちのために何か一生懸命してくれている」と感じることがスタート時点であるとおっしゃっていました。
このお話を聞いて、私自身の学生生活を振り返ってみると、確かに自分にとっていい先生とは、自分のために親身になって動いてくれていると感じられる先生であったなぁと思います。
力で押さえつけたり、怒鳴ったりすることは、その重石がなくなった途端、それまで押さえつけられていたものが噴出していくだけであり、何の教育にもなっていないでしょう。自分で律する力をつけずに教師が“コントロール”しているだけに過ぎないと、先生ご自身の経験を交えてお話をいただきました。
②授業は生徒指導の場
①を踏まえると、授業は生徒指導の場であると捉えることができます。授業中には、生徒とコミュニケーションを取る場面がたくさんあります。そのコミュニケーションの中で、ある生徒が乱雑に扱われたり、コミュニケーションが先延ばしにされると、その生徒の信頼を得ることができるでしょうか。普段のコミュニケーションでは当たり前にできていることが、授業の全体指導になるとなかなか難しいと感じます。しかし、そうした小さな積み重ねが、生徒の信頼を得る最短かつ唯一の方法であると思います。どうしてもコミュニケーションを先延ばしにするほかないという場合でも、言葉一つで信頼は維持することができるのだと思います。
③習熟度別とは
近年、習熟度別クラスが多く導入されていますが、果たして習熟度別にクラスを分ける必要があるのでしょうか。習熟度別に分けたところで、その中でまたfast-learnersとslow-learnersの二項対立が生じるのは必至ではないでしょうか。考え方は、どうしても生じてしまう生徒の個人差をどのように活かすかであると思います。習熟度別に分けられていない、一般的なクラスでは、どうしてもslow-learnersに目が向きがちで、fast-learnersがないがしろにされがちです。「fast-learnersは何も言わなくても進んで課題をするから放っておいても大丈夫」というのは良く聞く言葉です。しかしこれは、ある意味で、fast-learnersのケアを怠ることへの正当化のようにも感じられます。fast-learnersをケアしつつ、fast-learnerがslow-learnerをサポートする環境を整えることで、slow-learnerがfast-learnerから、またfast-learnerがslow-learnerから学ぶこともあります。(このような考え方に至るには、まず授業は教師が生徒に知識を与えることであるという考えから脱却する必要がありますが…。)また、クラスの中で習熟度別課題を与えて、自分の力に応じて課題を遂行していき、上記のような環境を整えることも可能であると思います。
④課題をしてくれば授業についていける仕組み
これは、私が今回のワークショップの中で一番印象に残っているところです。学校での学習と家庭学習、どちらも大切な学習の側面です。田尻先生からの問いかけは、「家庭学習が、生徒にとってやりがいのある、力が付くと実感できる課題になっていますか」でした。また、その返却の仕方について、「スタンプやサインだけで済ませていませんか」という問いかけもありました。生徒が「よし、課題をやってこよう!」と思える瞬間は、自分のやってきた課題に対して教師が一生懸命見てくれたということを実感できた瞬間、課題をやってきたから授業についてくことができたと実感できた瞬間です。これこそ、生徒の信頼を得るための第一歩であり、生徒が生徒が授業に積極的に授業参加するための環境づくりであると思います。
例えば、音読にもいくつか段階があります。(1)正しく読む段階、(2)たくさん練習する段階、(3)成果を確かめてもらう段階の3つです。これらの中で(1)と(3)は学校でしかできないものです。となると、(2)を家庭でやってくることが考えられます。(2)を家庭で練習してきて、それを学校で(3)成果を確かめる。そうすると、(2)を一生懸命してくるようになるのだそうです。
これもまた、生徒一人一人が(1)の段階でできるようになっているか確認することにより「自分のことをきちんと見てくれているんだ」と生徒が実感する大切な場面になります。
こうして考えてみると、やはり授業は生徒と教師の「人間関係の形成」の場であり、それをないがしろにするということは授業放棄していることと同義であると感じます。となれば、生徒の情意的な側面を考慮することも、授業準備の段階で必要であると思います。どの場面でどのような声掛けをするか、また、どの時期にどのような活動を取り入れるか、目の前の生徒をしっかりと見て考えることが(当然ですが)大切です。
と抽象的な一般論のようになってしまいましたが、具体的な授業の活動に落とし込んで考えていきたいと思います。
2013年3月10日日曜日
2013年1月25日金曜日
大津由紀雄先生 中締め講義―言語教育編― まとめその2
中締め講義―言語教育編―から早2週間。明日には―認知科学編―がありますね。その前に言語教育編のまとめは終わらせておかなければ。(残念ながら認知科学編には参加できませんが…。)
前回の記事では、大津先生の言語教育に関する考えを(稚拙な文章ながら)まとめさせてもらいました。今回は、指定討論者としてご講演頂いた(、そして大津言語教育論を斬った)松井先生、亘理先生、柳瀬先生の議論について考えたことをまとめておこうと思います。
まず、松井先生の議論。大津言語教育論における「ことばへの気づき(language awareness)」とは、一般的に言われているawarenessやnoticingとどのように異なるのか。どこまで「気づく」べきなのか。
awarenessやnoticingは(私にとって)曖昧で良くわからない概念です。Schmidt(1990)の気づき仮説(Noticing Hypothesis)では、気づきにもいくつかの段階があったように記憶しています。この仮説ではただインプットが取り込まれるにはそれに気づかなければならないと主張されていますが、大津言語教育論は、これにどのように気づくかを示して下さっているように思います。
大津先生の仰る「ことばへの気づき」というのは、「あぁ、そうか!」と学習者が言った瞬間に起きているのでしょう。私が勉強している認知言語学の立場から申しますと、この「ことばへの気づき」が生じるのは、学習者がすでに持っている言語に関するスキーマに、拡張事例による揺さぶりを書けたときであるように思います。前回の記事で言えば、「NP+たち=NPが複数存在する」というのがスキーマに当たり、「桃太郎たちは」というのが拡張事例に当たると考えています。学習者が「桃太郎たち」という拡張事例に出くわしたとき、「NP+たち」という表現は必ずしも「桃太郎が複数いる」ことは意味しないということを『経験的に』理解するのでしょう。気づくためには、学習者に与えるインプット(ここでは拡張事例)を適切に選択しなければなりません。
では、どこまで学習者は気づくべきなのでしょうか。これにはなかなか答えが出ないように思います。文法語彙項目によっても異なるでしょうし、拡張事例の選出方法も適宜変えていかなければならないと思います。ここ辺りは最終的には現場で勘を磨く外ないのでしょうか。
次に、亘理先生の議論。(議論の前に、亘理先生のスライドがとてもきれいにまとめられていて感動しました。)目的論レベルで英語教師と合致していないこと、言語の普遍性を理解することのメリット、「ことばへの気づき」とは結局何なのか。
特に目的論レベルでの不一致が気になりました。英語教育の目的とは果たして…。何のために英語を教えるのでしょうか。グローバル社会だから?なぜグローバル社会であれば英語が必要になるのか?社会の要請?などなど様々な疑問が浮かんできます。このようなことを少なくとも一度はきちんと考えておきたいと個人的には感じます。現段階で私は答えが出せていませんし、これから先まだまだ考えていかなければならない課題だと思います。そうでなければ、形骸化して英語を教えるようになってしまうような気も…。
言語の普遍性を理解することに関しては、まず理解すべきは教師側だと個人的には思います。私たちにとってL1は日本語であり、L2が英語であるという人が多いと思いますが、L1とL2を全く別のものであると捉えることもできるだろうし、共通の基盤があることも確かであろうと思います。ここでの共通の基盤とは何ぞやというのが疑問として浮上してくるでしょうが、この点に関しては認知言語学がかなりの部分を明らかにしてきているのではないでしょうか。Langackerのネットワーク理論、Lakoff and Johnsonの概念メタファー理論などなど、一度触れてみても面白いと思います。共通の基盤があると捉えていると、L1の知識を援用しやすいのではないでしょうか。
最後に、柳瀬先生の議論。大津言語教育論における身体性について指摘されていました。
身体論といえば、言語教育とは何ら関係ないと考える方も多くいらっしゃると思いますが、私個人としては、身体で経験したことが言語表現の基になっていることは認知言語学で明らかにされてきています(特に概念メタファー理論の領域)。このことを踏まえ、大津先生の仰る「ことばへの気づき」には「あぁ、そうか!」と気づいた瞬間の高まるような感情、もしくは情動が身体的な経験として言語表現と結びつけられるのではないでしょうか。その点で言えば、大津言語教育論にも身体性の観点はあるということが言えるかもしれません。身体性の観点から大津言語教育論を再考していくことも面白いのかなとも感じました。
最後のシンポジウムに関しては、私は新幹線の都合で途中退室させていただいたので言及は避けようと思いますが、途中までとても興味深く拝聴しました。この中締め講義に参加させて頂いて、自分の中でいろいろ『気づいた』こともありますし、また問題点も少し垣間見えた気がします。これを考えるきっかけとしていきたいと思います。
拙文失礼いたしました。
前回の記事では、大津先生の言語教育に関する考えを(稚拙な文章ながら)まとめさせてもらいました。今回は、指定討論者としてご講演頂いた(、そして大津言語教育論を斬った)松井先生、亘理先生、柳瀬先生の議論について考えたことをまとめておこうと思います。
まず、松井先生の議論。大津言語教育論における「ことばへの気づき(language awareness)」とは、一般的に言われているawarenessやnoticingとどのように異なるのか。どこまで「気づく」べきなのか。
awarenessやnoticingは(私にとって)曖昧で良くわからない概念です。Schmidt(1990)の気づき仮説(Noticing Hypothesis)では、気づきにもいくつかの段階があったように記憶しています。この仮説ではただインプットが取り込まれるにはそれに気づかなければならないと主張されていますが、大津言語教育論は、これにどのように気づくかを示して下さっているように思います。
大津先生の仰る「ことばへの気づき」というのは、「あぁ、そうか!」と学習者が言った瞬間に起きているのでしょう。私が勉強している認知言語学の立場から申しますと、この「ことばへの気づき」が生じるのは、学習者がすでに持っている言語に関するスキーマに、拡張事例による揺さぶりを書けたときであるように思います。前回の記事で言えば、「NP+たち=NPが複数存在する」というのがスキーマに当たり、「桃太郎たちは」というのが拡張事例に当たると考えています。学習者が「桃太郎たち」という拡張事例に出くわしたとき、「NP+たち」という表現は必ずしも「桃太郎が複数いる」ことは意味しないということを『経験的に』理解するのでしょう。気づくためには、学習者に与えるインプット(ここでは拡張事例)を適切に選択しなければなりません。
では、どこまで学習者は気づくべきなのでしょうか。これにはなかなか答えが出ないように思います。文法語彙項目によっても異なるでしょうし、拡張事例の選出方法も適宜変えていかなければならないと思います。ここ辺りは最終的には現場で勘を磨く外ないのでしょうか。
次に、亘理先生の議論。(議論の前に、亘理先生のスライドがとてもきれいにまとめられていて感動しました。)目的論レベルで英語教師と合致していないこと、言語の普遍性を理解することのメリット、「ことばへの気づき」とは結局何なのか。
特に目的論レベルでの不一致が気になりました。英語教育の目的とは果たして…。何のために英語を教えるのでしょうか。グローバル社会だから?なぜグローバル社会であれば英語が必要になるのか?社会の要請?などなど様々な疑問が浮かんできます。このようなことを少なくとも一度はきちんと考えておきたいと個人的には感じます。現段階で私は答えが出せていませんし、これから先まだまだ考えていかなければならない課題だと思います。そうでなければ、形骸化して英語を教えるようになってしまうような気も…。
言語の普遍性を理解することに関しては、まず理解すべきは教師側だと個人的には思います。私たちにとってL1は日本語であり、L2が英語であるという人が多いと思いますが、L1とL2を全く別のものであると捉えることもできるだろうし、共通の基盤があることも確かであろうと思います。ここでの共通の基盤とは何ぞやというのが疑問として浮上してくるでしょうが、この点に関しては認知言語学がかなりの部分を明らかにしてきているのではないでしょうか。Langackerのネットワーク理論、Lakoff and Johnsonの概念メタファー理論などなど、一度触れてみても面白いと思います。共通の基盤があると捉えていると、L1の知識を援用しやすいのではないでしょうか。
最後に、柳瀬先生の議論。大津言語教育論における身体性について指摘されていました。
身体論といえば、言語教育とは何ら関係ないと考える方も多くいらっしゃると思いますが、私個人としては、身体で経験したことが言語表現の基になっていることは認知言語学で明らかにされてきています(特に概念メタファー理論の領域)。このことを踏まえ、大津先生の仰る「ことばへの気づき」には「あぁ、そうか!」と気づいた瞬間の高まるような感情、もしくは情動が身体的な経験として言語表現と結びつけられるのではないでしょうか。その点で言えば、大津言語教育論にも身体性の観点はあるということが言えるかもしれません。身体性の観点から大津言語教育論を再考していくことも面白いのかなとも感じました。
最後のシンポジウムに関しては、私は新幹線の都合で途中退室させていただいたので言及は避けようと思いますが、途中までとても興味深く拝聴しました。この中締め講義に参加させて頂いて、自分の中でいろいろ『気づいた』こともありますし、また問題点も少し垣間見えた気がします。これを考えるきっかけとしていきたいと思います。
拙文失礼いたしました。
2013年1月13日日曜日
大津由紀雄先生 中締め講義―言語教育編― まとめその1
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
年が明けてもうすぐ半月が過ぎようとしていますが、いかがお過ごしでしょうか。
私はというと、本日(というか昨日ですね)1月12日に慶應義塾大学三田キャンパスで行われた、大津由紀雄先生の中締め講義(言語教育編)を聴講しに行きました。久しぶりの東京で、内心どきどきしていましたが、何とか無事に行って帰って来れました。記憶が新しいうちに、思考のまとめをしておきたいと思います。
講義は大津先生の言説の基盤部分になる知識からご教授頂きました。「ことばへの気づき」を中心にお話を伺いました。以下、大津先生の論と、自分なりに考えたことをまとめます。内容等、不適切なものがありましたら、ご指摘いただけると幸いです。
「ことばへの気づき」
講義においては、「ことばへの気づき」に関するムービーを見せて頂きました。1つだけ示させてもらうと、「トラさんたち」という複数を示す「たち」という形態素のL1での気づきに関するムービーがありました。日本語の「○○たち」というのは、必ずしも○○という名詞が複数いることを示しているのではなく、トラと象(、ゴリラ、、…)でも「○○たち」と表現することができます。
大津先生は、「L1による『ことばへの気づき』が言語の普遍性を導くものであり、それをL2に転用していく」と仰っていました。私もL1の言語知識を援用してL1で推論する方がはるかに鋭敏に「ことばへの気づき」が達成されるだろうと思います。L1による分析考察をL2に反映していく方がより深い「ことばへの気づき」が得られると考えます。「英語の授業は(原則的に)英語で」というのに何か少し違和感を感じていたのは、L1とL2を乖離した考え方だったのかもしれません。(だからと言ってL1での分析考察だけを行っていればいいという議論にはならないことには注意したいです。)
大津先生のお話を自分の研究につなげて考えてみました。
初期の段階では、「○○たち」=「○○が2つ以上」というマッピングがなされています。これをLangacker (1987, 1993, 2008) が主張しているネットワークモデルに落とし込むと、この段階ではSCHEMAとPROTOTYPEのネットワークが形成されている状態だと思います。この段階で、EXTENSIONとして「桃太郎たち」という表現は可能であるが、あの物語では桃太郎は何人?という揺さぶりをかけることによってSCHEMAが変容するのだと思います。この揺さぶりが「ことばへの気づき」を引き出すトリガーになっています。
「メタ言語知識」≒SCHEMAと考えることができると思います。そうすると、ことばの多義的な使用法を学習者に示す際には、何かEXTENSIONにあたる事例でSCHEMAに対し揺さぶりをかけることが有効に働くのかもしれません。
以上のことをまとめると次のようになると考えます:
①SCHEMA―PROTOTYPEのネットワークは(経験により)構築されている
②EXTENSIONの事例を提示して①のSCHEMAに揺さぶりをかける
③SCHEMAの変容(もしくは再構築…抽象度の上昇)
といった具合にことばの意味が拡張していく、もしくは学習者の頭の中の意味ネットワークを広げていくことができるかもしれません。(※この点に関してはもっと慎重に、丁寧に考える必要があると思いますが…)
現在、修士論文で句動詞の多義性について調べていて、句動詞の教育文法を認知言語学の立場から示そうとしています。その際、Langackerのネットワークモデルも用いて整理しようと思っていたのですが、ネットワークを示すだけでそれをどのように用いることができるのか、ちょうど悩んでいたところでした。少し糸口が見えたような気がしています。
またの機会に自分の研究についても書いてみたいなと思います。
他にもたくさんのことをご教授頂いて、さらには、大津先生自ら指定討論者を選出して批判をさせるという時間も設けられておりました。この辺りから、大津先生の学び続ける姿勢、批判を受け入れ自分の論を更に精緻なものにしていこうという姿勢が見受けられる気がしました。この討論である、『大津言語教育論を斬る』の部に関してもまとめたいと思っていますが、それはまた次回ということで。近いうちにまとめたいと思います。
----------
Langackerのネットワークモデルに関しては、Open File Notesの「言語学者Ronald Langackerによる動的用法基盤モデルの汎用性」というサイトで簡潔にまとめられています。また、興味がある方は、Langacker(2008) Cognitive Grammarや山梨正明『認知構文論』をご覧になると参考になるかと思います。
年が明けてもうすぐ半月が過ぎようとしていますが、いかがお過ごしでしょうか。
私はというと、本日(というか昨日ですね)1月12日に慶應義塾大学三田キャンパスで行われた、大津由紀雄先生の中締め講義(言語教育編)を聴講しに行きました。久しぶりの東京で、内心どきどきしていましたが、何とか無事に行って帰って来れました。記憶が新しいうちに、思考のまとめをしておきたいと思います。
講義は大津先生の言説の基盤部分になる知識からご教授頂きました。「ことばへの気づき」を中心にお話を伺いました。以下、大津先生の論と、自分なりに考えたことをまとめます。内容等、不適切なものがありましたら、ご指摘いただけると幸いです。
「ことばへの気づき」
講義においては、「ことばへの気づき」に関するムービーを見せて頂きました。1つだけ示させてもらうと、「トラさんたち」という複数を示す「たち」という形態素のL1での気づきに関するムービーがありました。日本語の「○○たち」というのは、必ずしも○○という名詞が複数いることを示しているのではなく、トラと象(、ゴリラ、、…)でも「○○たち」と表現することができます。
大津先生は、「L1による『ことばへの気づき』が言語の普遍性を導くものであり、それをL2に転用していく」と仰っていました。私もL1の言語知識を援用してL1で推論する方がはるかに鋭敏に「ことばへの気づき」が達成されるだろうと思います。L1による分析考察をL2に反映していく方がより深い「ことばへの気づき」が得られると考えます。「英語の授業は(原則的に)英語で」というのに何か少し違和感を感じていたのは、L1とL2を乖離した考え方だったのかもしれません。(だからと言ってL1での分析考察だけを行っていればいいという議論にはならないことには注意したいです。)
大津先生のお話を自分の研究につなげて考えてみました。
初期の段階では、「○○たち」=「○○が2つ以上」というマッピングがなされています。これをLangacker (1987, 1993, 2008) が主張しているネットワークモデルに落とし込むと、この段階ではSCHEMAとPROTOTYPEのネットワークが形成されている状態だと思います。この段階で、EXTENSIONとして「桃太郎たち」という表現は可能であるが、あの物語では桃太郎は何人?という揺さぶりをかけることによってSCHEMAが変容するのだと思います。この揺さぶりが「ことばへの気づき」を引き出すトリガーになっています。
「メタ言語知識」≒SCHEMAと考えることができると思います。そうすると、ことばの多義的な使用法を学習者に示す際には、何かEXTENSIONにあたる事例でSCHEMAに対し揺さぶりをかけることが有効に働くのかもしれません。
以上のことをまとめると次のようになると考えます:
①SCHEMA―PROTOTYPEのネットワークは(経験により)構築されている
②EXTENSIONの事例を提示して①のSCHEMAに揺さぶりをかける
③SCHEMAの変容(もしくは再構築…抽象度の上昇)
といった具合にことばの意味が拡張していく、もしくは学習者の頭の中の意味ネットワークを広げていくことができるかもしれません。(※この点に関してはもっと慎重に、丁寧に考える必要があると思いますが…)
現在、修士論文で句動詞の多義性について調べていて、句動詞の教育文法を認知言語学の立場から示そうとしています。その際、Langackerのネットワークモデルも用いて整理しようと思っていたのですが、ネットワークを示すだけでそれをどのように用いることができるのか、ちょうど悩んでいたところでした。少し糸口が見えたような気がしています。
またの機会に自分の研究についても書いてみたいなと思います。
他にもたくさんのことをご教授頂いて、さらには、大津先生自ら指定討論者を選出して批判をさせるという時間も設けられておりました。この辺りから、大津先生の学び続ける姿勢、批判を受け入れ自分の論を更に精緻なものにしていこうという姿勢が見受けられる気がしました。この討論である、『大津言語教育論を斬る』の部に関してもまとめたいと思っていますが、それはまた次回ということで。近いうちにまとめたいと思います。
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Langackerのネットワークモデルに関しては、Open File Notesの「言語学者Ronald Langackerによる動的用法基盤モデルの汎用性」というサイトで簡潔にまとめられています。また、興味がある方は、Langacker(2008) Cognitive Grammarや山梨正明『認知構文論』をご覧になると参考になるかと思います。
2012年12月6日木曜日
平成24年度附属研究大会
今回は2つの附属学校で公開授業を拝見しました。(このエントリーは単なる一学生の感想のようになってしまいますが、その点はご容赦ください。)
全部で5つの授業を観させていただきましたが、再来年度から中学校で勤務することもあり、中学校の実践を「学生の立場で」3つ見ることができ、多くの刺激を受け、授業を進めていく上で必要なことを学びました。
まず1校目。
1つ目の授業は高校1年生の英Iの授業。教材としてCrown IのLesson 7 Not So Long Agoが取り扱われていました。内容としては「20世紀の明暗(戦争と発展)」それぞれの側面を対照的に記述してある文章で、写真が多く用いられています。その点ではメッセージ性の強い教材だと思われます。
今回の授業では、ICTを用いて写真等を提示しながらの進行でした。Picture Descriptionを通して写真が伝える様々なことを読み取る練習を単元を通して行っていたみたいです。さらに毎回用いていた写真が実は本文に出てくる地域の「現在」を写すものであるという種明かしが本時でされていて、このような仕掛けをすることによって活動のつながりを意識することができるようになると感じました。
本文に込められたメッセージを読み取ることがメインの活動であったように見受けました。どのようにメッセージを読み取らせるのかがとても難しいなと直観的に感じましたが、読み取るメッセージは人それぞれでいいのではないでしょうか。筆者が伝えたいメッセージを文字から読み取ることと、それを読んで個人が感じることは必ずしもイコールの関係ではないと思います。核になるのは、メッセージをどのように読み取り、どう解釈していくことができるのか、その方法を身につけさせることであるように思います。その教材のメッセージが読み取れたところで別の文を読んだときに同じようにメッセージが読み取れるかと言われれば、答えは100%のYESではないでしょう。その術をいかに身につける道筋を立てるかがポイントだと思いました。
2つ目の授業は中学2年生の英語の授業。教材はNEW CROWN 2のLesson 8で言語材料としては受動態です。
全体的にきめ細かい仕掛けがあって、指示も簡潔、先生が話している時間がかなり短く、生徒が活動している時間の方が多い授業でした。使用言語はすべて英語。先生が日本語を話すことは一度もありませんでした。英語で質問して日本語で答えさせても、必ずそれを英語に直して音読させる。徹底的に生徒が英語に触れる機会が与えられている授業でした。圧巻。
また、Warm-upで用いられていた活動は、Data DescriptionをLINE OR RAWに交えて行っていました。ゲーム感覚の中で前時に習った言語材料(比較)を活用し、さらには本単元のターゲットである文構造(受動態)を用いることのできる活動でした。既習の言語知識と結びつけながら新出のものを練習させる(もしくは意識化させる)活動であると感じました。Warm-upの役割は、ただ英語の授業を行うためのice-breakerであると思っていましたが、この活動を見てこのようにReviewやPracticeを兼ねたWarm-upが可能であることを痛感しました。
本当に無駄な時間が1秒もない授業でした。見習いたいことがたくさんあり過ぎますが、ひとつずつ身に付けていきたいです。
分科会では英語の授業は体育と同じように「何かをするための術を教えること」であるという話がありました。確かに、従来の英語授業では、教科書の本文を理解し、その文を活用して(もしくは“模して”)プロダクション活動を行うことが中心になっていましたが、それでは別の教材に当たったときに太刀打ちできません。そうではなく、どのように英語を理解していくことができるのか、どのように文構造を組み立てることができるのか、その術を教えることが次に繋がる英語授業であるということです。その場限りの能力ではなく、次に繋がる力を。このことを意識しながら実践していくことが(難しいでしょうけど)必要であると感じました。
次に2校目。
1つ目の授業は中学1年生の現在進行形の授業でした。ただ単に「現在進行形は“be + -ing”である」と教えるだけではなく、どのような時に現在進行形が使われるのかを考えさせる、ある意味挑戦的な授業でした。とても難しい、抽象的な話を、中学1年生が分かるように噛み砕き、具体に落としていて、生徒たちの思考を促す授業だったと思います。
一方で、進行形の意味は動詞の内在的相特徴によって大きく変わってくるもので、一概に一般化を図ることはとても難しいものだと感じます。例えば授業中に提示されていた例文は…
A car is stopping near Koji.
でした。この場合、"stopping"は2通りに解釈することができると思います。1つは「Kojiの近くに停車している」、もう1つは「Kojiの近くに止まりかけている」です。この場合、情報構造の観点からの問題も浮かび上がってきます。これらは全て"decontextualize"もしくは"sanitize"された例文が引き起こす問題であるように思われます。上記の例文に文脈を与えれば如何様にも解釈することができます(英語教員はこのような文脈がすぐに思いつくかもしれません)。しかし、やはり生徒に例文を提示する時には、このような誤解を避けるためにも例文を吟味する必要があると思います。
ある原理原則を提示するとやはり例外が生まれてしまいます。その例外をいつまでも例外として処理するだけでは学習の負荷がいつまで経っても大きいままです。やはりどこかで共通の事柄を抽出する訓練が必要なのだと感じます。(そのためには前提として、学習者が多くの言語事実[=例文]に触れる必要があると思いますが…。)
2つ目の授業は中学2年生のThere is/are~構文の授業でした。この構文もただ単に構造を教えるだけではなく、どうしてThere is/are~を用いないといけないのかを考えさせることが、後々重要になってくると感じました。さらに、この構文には冠詞の使用も問題として生じてきます。ターゲットの文構造だけでなく、それに付随して必要になる知識を補完していくことが重要になると思います。
「なぜThereがいつも主語の位置にくるのか」、この疑問に対してただの「倒置だよ」だけでは「なぜ倒置が起きるのか」に対して答えることが必要になります。このことに関しては情報構造の観点からの説明が必要になると感じます。新情報、旧情報の配列の仕方をこれまでに学習した例文等を用いて導入し、それをThere is/are~構文に応用することで、この謎がすんなり解けるのではないでしょうか(という想像です)。このことを実際に授業に落とすにはまだまだ考慮すべきことがありますが…。
3つ目の授業は小学5年生の外国語活動の授業を見せてもらいました。小学校でどのようなことをしているのか垣間見ることのできる貴重な経験です。フォニックスの指導など専門的なところだけではなく、やはり小学校の先生は生徒一人ひとりに対する気配りというか、目の配り方が上手だなと感じました。クラス全体の活動の時でも必ず生徒一人に一回はコミュニケーションを取る機会を作っていたように見えました。もっと小学校の実践を見に行って学んでみたいです。
以上まとめてきましたが、もう少し上手く文章でまとめられるようになりたいですね(笑)
全部で5つの授業を観させていただきましたが、再来年度から中学校で勤務することもあり、中学校の実践を「学生の立場で」3つ見ることができ、多くの刺激を受け、授業を進めていく上で必要なことを学びました。
まず1校目。
1つ目の授業は高校1年生の英Iの授業。教材としてCrown IのLesson 7 Not So Long Agoが取り扱われていました。内容としては「20世紀の明暗(戦争と発展)」それぞれの側面を対照的に記述してある文章で、写真が多く用いられています。その点ではメッセージ性の強い教材だと思われます。
今回の授業では、ICTを用いて写真等を提示しながらの進行でした。Picture Descriptionを通して写真が伝える様々なことを読み取る練習を単元を通して行っていたみたいです。さらに毎回用いていた写真が実は本文に出てくる地域の「現在」を写すものであるという種明かしが本時でされていて、このような仕掛けをすることによって活動のつながりを意識することができるようになると感じました。
本文に込められたメッセージを読み取ることがメインの活動であったように見受けました。どのようにメッセージを読み取らせるのかがとても難しいなと直観的に感じましたが、読み取るメッセージは人それぞれでいいのではないでしょうか。筆者が伝えたいメッセージを文字から読み取ることと、それを読んで個人が感じることは必ずしもイコールの関係ではないと思います。核になるのは、メッセージをどのように読み取り、どう解釈していくことができるのか、その方法を身につけさせることであるように思います。その教材のメッセージが読み取れたところで別の文を読んだときに同じようにメッセージが読み取れるかと言われれば、答えは100%のYESではないでしょう。その術をいかに身につける道筋を立てるかがポイントだと思いました。
2つ目の授業は中学2年生の英語の授業。教材はNEW CROWN 2のLesson 8で言語材料としては受動態です。
全体的にきめ細かい仕掛けがあって、指示も簡潔、先生が話している時間がかなり短く、生徒が活動している時間の方が多い授業でした。使用言語はすべて英語。先生が日本語を話すことは一度もありませんでした。英語で質問して日本語で答えさせても、必ずそれを英語に直して音読させる。徹底的に生徒が英語に触れる機会が与えられている授業でした。圧巻。
また、Warm-upで用いられていた活動は、Data DescriptionをLINE OR RAWに交えて行っていました。ゲーム感覚の中で前時に習った言語材料(比較)を活用し、さらには本単元のターゲットである文構造(受動態)を用いることのできる活動でした。既習の言語知識と結びつけながら新出のものを練習させる(もしくは意識化させる)活動であると感じました。Warm-upの役割は、ただ英語の授業を行うためのice-breakerであると思っていましたが、この活動を見てこのようにReviewやPracticeを兼ねたWarm-upが可能であることを痛感しました。
本当に無駄な時間が1秒もない授業でした。見習いたいことがたくさんあり過ぎますが、ひとつずつ身に付けていきたいです。
分科会では英語の授業は体育と同じように「何かをするための術を教えること」であるという話がありました。確かに、従来の英語授業では、教科書の本文を理解し、その文を活用して(もしくは“模して”)プロダクション活動を行うことが中心になっていましたが、それでは別の教材に当たったときに太刀打ちできません。そうではなく、どのように英語を理解していくことができるのか、どのように文構造を組み立てることができるのか、その術を教えることが次に繋がる英語授業であるということです。その場限りの能力ではなく、次に繋がる力を。このことを意識しながら実践していくことが(難しいでしょうけど)必要であると感じました。
次に2校目。
1つ目の授業は中学1年生の現在進行形の授業でした。ただ単に「現在進行形は“be + -ing”である」と教えるだけではなく、どのような時に現在進行形が使われるのかを考えさせる、ある意味挑戦的な授業でした。とても難しい、抽象的な話を、中学1年生が分かるように噛み砕き、具体に落としていて、生徒たちの思考を促す授業だったと思います。
一方で、進行形の意味は動詞の内在的相特徴によって大きく変わってくるもので、一概に一般化を図ることはとても難しいものだと感じます。例えば授業中に提示されていた例文は…
A car is stopping near Koji.
でした。この場合、"stopping"は2通りに解釈することができると思います。1つは「Kojiの近くに停車している」、もう1つは「Kojiの近くに止まりかけている」です。この場合、情報構造の観点からの問題も浮かび上がってきます。これらは全て"decontextualize"もしくは"sanitize"された例文が引き起こす問題であるように思われます。上記の例文に文脈を与えれば如何様にも解釈することができます(英語教員はこのような文脈がすぐに思いつくかもしれません)。しかし、やはり生徒に例文を提示する時には、このような誤解を避けるためにも例文を吟味する必要があると思います。
ある原理原則を提示するとやはり例外が生まれてしまいます。その例外をいつまでも例外として処理するだけでは学習の負荷がいつまで経っても大きいままです。やはりどこかで共通の事柄を抽出する訓練が必要なのだと感じます。(そのためには前提として、学習者が多くの言語事実[=例文]に触れる必要があると思いますが…。)
2つ目の授業は中学2年生のThere is/are~構文の授業でした。この構文もただ単に構造を教えるだけではなく、どうしてThere is/are~を用いないといけないのかを考えさせることが、後々重要になってくると感じました。さらに、この構文には冠詞の使用も問題として生じてきます。ターゲットの文構造だけでなく、それに付随して必要になる知識を補完していくことが重要になると思います。
「なぜThereがいつも主語の位置にくるのか」、この疑問に対してただの「倒置だよ」だけでは「なぜ倒置が起きるのか」に対して答えることが必要になります。このことに関しては情報構造の観点からの説明が必要になると感じます。新情報、旧情報の配列の仕方をこれまでに学習した例文等を用いて導入し、それをThere is/are~構文に応用することで、この謎がすんなり解けるのではないでしょうか(という想像です)。このことを実際に授業に落とすにはまだまだ考慮すべきことがありますが…。
3つ目の授業は小学5年生の外国語活動の授業を見せてもらいました。小学校でどのようなことをしているのか垣間見ることのできる貴重な経験です。フォニックスの指導など専門的なところだけではなく、やはり小学校の先生は生徒一人ひとりに対する気配りというか、目の配り方が上手だなと感じました。クラス全体の活動の時でも必ず生徒一人に一回はコミュニケーションを取る機会を作っていたように見えました。もっと小学校の実践を見に行って学んでみたいです。
以上まとめてきましたが、もう少し上手く文章でまとめられるようになりたいですね(笑)
2012年11月5日月曜日
第5回山口県英語教育フォーラム
2012年11月3日(土・祝)、山口市で行われた第5回山口県英語教育フォーラム「『英語教育改革』その前に・・・」に参加させていただきました。長沼先生、山岡先生、奥住先生のご講演を拝聴させていただき、とても良い刺激を受け、充実した一日になりました。拝聴させていただいたことと、拝聴させていただいて考えたことを僭越ながらまとめておきたいと思います。まだまだ甘い思考ですがご容赦ください。
まずは長沼君主先生の「『Can-Doリストの使用』、その前に・・・。」
「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」が平成23年7月に示され、そのうちの提言1である「生徒に求められる英語力について、その達成状況を把握・検証する」の部分では、その具体的施策として「中・高等学校は、学習到達目標を「CAN-DOリスト」の形で設定・公表するとともに、その達成状況を把握する」ことが挙げられています。これを受けて現在、CEFR-J(日本版のCEFR: Common European Framework of Reference for Languages)が公開されており、また、各中・高等学校において学校独自のCAN-DOリストを作成されてきています。
今回のご講演では、CAN-DOリストを作成する以前の理念的側面を中心にお話しされていたと思います。CEFRやCEFR-Jなどの共通参照枠はあくまで「参照枠」であり、決して「スタンダード」ではないということを今回は理解しました。スタンダードになってしまうと地域の実態、また目の前にいる子どもたちに合わない、また理想だけが先行してしまう危険性があるということから、CAN-DOリストは、地域の実態を踏まえてボトムアップ的に作成されること、また、小中高一貫して作成されることが大切であり、「なぜ国がトップダウン的に作らないのか?」という疑問が少し解消されました。
CAN-DOの理念的なことは少しずつ理解してきている(ような気がします)が、では実際にどうやってCAN-DOリストを作成していけばいいのか、その部分をもっと聞きたくなりました。ご講演の中でワークショップ形式であればもっと具体的にされているとのことだったので、機会があれば是非参加させて頂きたいです。また、講演中に紹介してくださったCAN-DOリストのサンプル等を見ながら、どのようなCAN-DOが作れるのかを考えてみることが大切なんだろうなぁと感じました。
実際にCAN-DOリストを作成した後にも、その使用に注意が必要であることを学びました。CAN-DOリストは、その使い方を間違えるとCANNOT-DOリストになってしまい、学習者をdemotivateさせる要因になる懸念があるということです。学習者に「できた感」を感じる機会になるようCAN-DOリストを活用し、うまく学習者を動機づけ、自律学習へと導く手立てになるよう配慮が必要です。
深く考えなければならないことは、このCAN-DOリストもしくはCEFRの考え方が形骸化して日本に持ち込まれているのではないかという点です。上記の自律学習促進の側面や、CEFRのヨーロッパにおける本来の目的などを知らず、ただ単にCAN-DOリストだけを取り入れてしまうと、結局「あぁうまくいかなかったね」といった結果になるように思うのです。だからこうした理念的な理解というのは必要だと感じますし、分かった上で活用していきたいと思っています。(ただ理念的な理解もまだまだ必要ですし、それを具体レベルにまでどのように落とし込んでいくのか、さらに勉強が必要だと思いますが・・・。)
CEFRに関して、アルクのページで簡潔にまとめられています。
次に、山岡憲史先生の「『英語の授業は英語で』、その前に・・・」
来年度から完全実施になる新高等学校学習指導要領では、原則として英語の授業は英語で行うことと記されています。この背景の一つとして「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」が挙げられます。中・高等学校を卒業すれば英語が『使える』人材を育成しようという行動計画です。
これまで日本では文法訳読式教授法が主流で、学習者が英文を日本語訳し、教師がそれを直していく、この繰り返しで授業を行ってきました。しかし、これでは英語を「使える」までには至らなかったというのが現状です(これには少し疑問がありますが・・・)。文法訳読式の詰め込み型教育から大きく振り子が振れ、コミュニケーションを授業の中心として、コミュニケーションしながら英語を学習させるCommunicative Language Teaching(CLT)へと移行していきました。その流れの一つで英語の授業は英語でとなってきたと理解しています(間違っていたら訂正してください)。
ご講演の中で英語の授業を英語で行うことの利点やその方法などをお聴きしました。英語の授業を英語で行うことによって様々な良い効果が得られることが分かりました。しかしどうしても「英語がわからない」「英語がそもそも嫌い」な学習者に対して英語の授業を英語で行うことの意義が見出せませんでした。最初は英語が分からない学習者も徐々に慣れてきて、最終的には英語で英語を理解するようになる。これができれば一番いいのだろうと思いますが、やはり英語が嫌いな学習者にはただ苦痛でしかないように思うのです。徐々に慣れてくるというのはあまりに無責任なような気がしてしまいます。そのためには徐々に慣れて行くための手立て、もしくは仕掛けが必要でしょうし、先生もご講演の中で学習者の既習事項を把握し活用していくことの重要性には言及されておられました。
来年度から施行ということで、その施行の前に、今一度、英語の授業を英語で行う意義は何なのか、目的は何なのか、そのためにどのような工夫が必要なのか、考える必要があることに気付かせていただけました。
最後に、奥住桂先生の「『自己表現』、その前に・・・。」
『自己表現』をやっていれば『自己表現』する力は本当に伸びるのでしょうか。奥住先生がこの疑問をご講演の最初の方に提示され、私はこれまで無批判的に「自己表現=良いこと」と捉えていたことに気付きました。なぜ自己表現活動をするのでしょうか。自己表現活動にはどのような効果があるのでしょうか。このようなことを考えないまま自己表現をさせてしまうと「書けない」「書きたくない」の負の連鎖になってしまうだろうことは容易に想像できます。
自己表現にまで至らせる以前に、そのための基礎づくりが大切であるということは理解していながらもそのステップをすっ飛ばしてしまうということはWritingにおいてはよく見られます。なぜなんでしょうね。ListeningやSpeaking、Readingは事前に単語の意味や発音をチェックしたり、繰り返し音読してみたり、さまざまな事前準備を行うのに、Writingになると急に「さぁ書け~」になってしまう。中学校では「自己表現」という名の“自由な”Writingをさせながら高等学校に上がると和文英訳や書換え問題など「自己表現」とは程遠いWritingをさせる傾向にあります。これは逆ではないでしょうか、というのが先生の問いかけでした。最初子どもにチャンバラばかりさせておいて、しばらくしてから素振りという基礎練習ばかりさせることと同じだというメタファーでした。本当にそうですよね。
closedで単語・句レベルのWritingから徐々にopenで文・段落レベルのWritingへとバランスのとれたWritingを行うためにはまず自分が書かせているタスクのバランスを考えることが大切だと仰っていました。その際、先生が行ってきた様々な実践を紹介してくださり、「そんな方法もあるんだぁ」と率直に感じていました。
中学校のWritingで学習者に身に付けてほしいのは、書く内容といったソフトな部分の質よりもまずはWritingの中核になる文法や語法のハードな部分の質であり、そのためには基礎的な訓練は必要不可欠。その部分を充実させた上で「自己表現」へと移していきたいです。
お三方の講演を拝聴させていただいて、本当に良い刺激になりました。まだまだ勉強不足を痛感した一日でしたが、同時にとても充実した一日でした。
まずは長沼君主先生の「『Can-Doリストの使用』、その前に・・・。」
「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」が平成23年7月に示され、そのうちの提言1である「生徒に求められる英語力について、その達成状況を把握・検証する」の部分では、その具体的施策として「中・高等学校は、学習到達目標を「CAN-DOリスト」の形で設定・公表するとともに、その達成状況を把握する」ことが挙げられています。これを受けて現在、CEFR-J(日本版のCEFR: Common European Framework of Reference for Languages)が公開されており、また、各中・高等学校において学校独自のCAN-DOリストを作成されてきています。
今回のご講演では、CAN-DOリストを作成する以前の理念的側面を中心にお話しされていたと思います。CEFRやCEFR-Jなどの共通参照枠はあくまで「参照枠」であり、決して「スタンダード」ではないということを今回は理解しました。スタンダードになってしまうと地域の実態、また目の前にいる子どもたちに合わない、また理想だけが先行してしまう危険性があるということから、CAN-DOリストは、地域の実態を踏まえてボトムアップ的に作成されること、また、小中高一貫して作成されることが大切であり、「なぜ国がトップダウン的に作らないのか?」という疑問が少し解消されました。
CAN-DOの理念的なことは少しずつ理解してきている(ような気がします)が、では実際にどうやってCAN-DOリストを作成していけばいいのか、その部分をもっと聞きたくなりました。ご講演の中でワークショップ形式であればもっと具体的にされているとのことだったので、機会があれば是非参加させて頂きたいです。また、講演中に紹介してくださったCAN-DOリストのサンプル等を見ながら、どのようなCAN-DOが作れるのかを考えてみることが大切なんだろうなぁと感じました。
実際にCAN-DOリストを作成した後にも、その使用に注意が必要であることを学びました。CAN-DOリストは、その使い方を間違えるとCANNOT-DOリストになってしまい、学習者をdemotivateさせる要因になる懸念があるということです。学習者に「できた感」を感じる機会になるようCAN-DOリストを活用し、うまく学習者を動機づけ、自律学習へと導く手立てになるよう配慮が必要です。
深く考えなければならないことは、このCAN-DOリストもしくはCEFRの考え方が形骸化して日本に持ち込まれているのではないかという点です。上記の自律学習促進の側面や、CEFRのヨーロッパにおける本来の目的などを知らず、ただ単にCAN-DOリストだけを取り入れてしまうと、結局「あぁうまくいかなかったね」といった結果になるように思うのです。だからこうした理念的な理解というのは必要だと感じますし、分かった上で活用していきたいと思っています。(ただ理念的な理解もまだまだ必要ですし、それを具体レベルにまでどのように落とし込んでいくのか、さらに勉強が必要だと思いますが・・・。)
CEFRに関して、アルクのページで簡潔にまとめられています。
次に、山岡憲史先生の「『英語の授業は英語で』、その前に・・・」
来年度から完全実施になる新高等学校学習指導要領では、原則として英語の授業は英語で行うことと記されています。この背景の一つとして「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」が挙げられます。中・高等学校を卒業すれば英語が『使える』人材を育成しようという行動計画です。
これまで日本では文法訳読式教授法が主流で、学習者が英文を日本語訳し、教師がそれを直していく、この繰り返しで授業を行ってきました。しかし、これでは英語を「使える」までには至らなかったというのが現状です(これには少し疑問がありますが・・・)。文法訳読式の詰め込み型教育から大きく振り子が振れ、コミュニケーションを授業の中心として、コミュニケーションしながら英語を学習させるCommunicative Language Teaching(CLT)へと移行していきました。その流れの一つで英語の授業は英語でとなってきたと理解しています(間違っていたら訂正してください)。
ご講演の中で英語の授業を英語で行うことの利点やその方法などをお聴きしました。英語の授業を英語で行うことによって様々な良い効果が得られることが分かりました。しかしどうしても「英語がわからない」「英語がそもそも嫌い」な学習者に対して英語の授業を英語で行うことの意義が見出せませんでした。最初は英語が分からない学習者も徐々に慣れてきて、最終的には英語で英語を理解するようになる。これができれば一番いいのだろうと思いますが、やはり英語が嫌いな学習者にはただ苦痛でしかないように思うのです。徐々に慣れてくるというのはあまりに無責任なような気がしてしまいます。そのためには徐々に慣れて行くための手立て、もしくは仕掛けが必要でしょうし、先生もご講演の中で学習者の既習事項を把握し活用していくことの重要性には言及されておられました。
来年度から施行ということで、その施行の前に、今一度、英語の授業を英語で行う意義は何なのか、目的は何なのか、そのためにどのような工夫が必要なのか、考える必要があることに気付かせていただけました。
最後に、奥住桂先生の「『自己表現』、その前に・・・。」
『自己表現』をやっていれば『自己表現』する力は本当に伸びるのでしょうか。奥住先生がこの疑問をご講演の最初の方に提示され、私はこれまで無批判的に「自己表現=良いこと」と捉えていたことに気付きました。なぜ自己表現活動をするのでしょうか。自己表現活動にはどのような効果があるのでしょうか。このようなことを考えないまま自己表現をさせてしまうと「書けない」「書きたくない」の負の連鎖になってしまうだろうことは容易に想像できます。
自己表現にまで至らせる以前に、そのための基礎づくりが大切であるということは理解していながらもそのステップをすっ飛ばしてしまうということはWritingにおいてはよく見られます。なぜなんでしょうね。ListeningやSpeaking、Readingは事前に単語の意味や発音をチェックしたり、繰り返し音読してみたり、さまざまな事前準備を行うのに、Writingになると急に「さぁ書け~」になってしまう。中学校では「自己表現」という名の“自由な”Writingをさせながら高等学校に上がると和文英訳や書換え問題など「自己表現」とは程遠いWritingをさせる傾向にあります。これは逆ではないでしょうか、というのが先生の問いかけでした。最初子どもにチャンバラばかりさせておいて、しばらくしてから素振りという基礎練習ばかりさせることと同じだというメタファーでした。本当にそうですよね。
closedで単語・句レベルのWritingから徐々にopenで文・段落レベルのWritingへとバランスのとれたWritingを行うためにはまず自分が書かせているタスクのバランスを考えることが大切だと仰っていました。その際、先生が行ってきた様々な実践を紹介してくださり、「そんな方法もあるんだぁ」と率直に感じていました。
中学校のWritingで学習者に身に付けてほしいのは、書く内容といったソフトな部分の質よりもまずはWritingの中核になる文法や語法のハードな部分の質であり、そのためには基礎的な訓練は必要不可欠。その部分を充実させた上で「自己表現」へと移していきたいです。
お三方の講演を拝聴させていただいて、本当に良い刺激になりました。まだまだ勉強不足を痛感した一日でしたが、同時にとても充実した一日でした。
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